大阪地方裁判所 平成11年(ワ)178号 判決 2000年5月26日
主文
原告の請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一 請求
被告は、原告に対し、42万2,760円及びこれに対する平成11年2月4日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
本件は、貸金業者である被告から金員の借り入れをしていた原告が、被告に対し、弁済金を利息制限法に従って債務に充当すると過払いになるとして過払金相当額の不当利得の返還を求めるとともに、被告が取引経過の開示義務に違反して原告との全取引経過を開示しなかったために損害を被ったと主張して、損害賠償を求めた事件である。
一 前提となる事実(争いがないか又は証拠上容易に認められる事実)
1 被告は、貸金業の規制等に関する法律(以下「貸金業法」という。)に基づく貸金業の登録をしている貸金業者である。
2 原告は、平成2年に被告との間でクレジットカード利用契約を締結し、右契約に基づいて被告からカードキャッシングによる金員の借り入れを多数回行い、平成9年11月ころまで弁済を行っていた。キャッシングの約定利率は、年28.8パーセントであった。
3 原告は、被告を含む多数の貸金業者等に対する債務の弁済に窮したため、平成9年12月、西田広一弁護士に対し、任意整理を依頼した。
4 西田弁護士は、平成9年12月18日付けの「ご連絡」と題する書面により、被告に対して、原告の任意整理の代理人となった旨を告げるとともに、被告に対する債務額の確定のために、これまでの取引経過をすべて記載した債権届出書、債権の存在を証する書面(借用書等)及び利息制限法に従った弁済充当の計算書の送付を求めた(甲五)。
被告は、平成10年1月7日、原告に対して、平成7年12月31日以降の取引経過を記載した貸金明細書を添付して、債権届出書を送付した(甲三の2、3)。
原告は、平成10年3月19日付けの「ご連絡」と題する書面により、被告に対し、原告との過去の全取引経過を記載した書面の提出を求めた(甲六)。
5 原告は、平成10年4月10日、大阪地方裁判所に対し、被告ほか3名の貸金業者を相手方として、原告に係る貸金業法19条所定の帳簿等の閲覧謄写を求める仮処分の申立てをした。
被告は、同年5月19日、右仮処分事件の審尋期日において、原告に対し、平成6年12月31日以降の原告との取引経過を記載した書面を交付した(甲三の4)。
大阪地方裁判所は、平成10年6月12日、原告の右仮処分申立てを却下する決定をした。
6 原告は、平成11年1月11日、被告ほか3名の貸金業者を相手方として、本件訴訟を提起した。
被告は、同年4月23日の本件第2回口頭弁論期日において、原告のクレジットカード利用状況全部を記載した書証(丁四ないし六二)を提出した。
被告は、原告の同年5月11日付け当事者照会書に対する同年6月10日付け回答書において、原告の弁済の時期及び金額を明らかにし、利息制限法に従った弁済充当の計算書を添付した。
二 争点
1 不当利得返還請求について
(原告の主張))
原告の被告からの借り入れ及びこれに対する弁済は、別紙計算書のとおりであり、利息制限法に従った弁済充当を行うと、31万2,760円の過払いとなり、原告は同額の不当利得返還請求権を有する。
(被告の主張)
被告は、平成11年9月8日、原告に対して31万2,760円を弁済した。原告は、同日、不当利得返還請求権に対する遅延損害金債権を放棄した。
2 損害賠償請求について
(原告の主張)
(一) 貸金業者は、債務者やその依頼を受けた弁護士が債務の整理への協力を求め、取引経過の開示を求めたときは、これに誠実に協力して債務者との全取引経過を開示すべき義務を負い、右義務を怠って債務者に損害を与えたときは、不法行為責任を負う。
一般に取引の当事者は適正な取引を行うために協力し合うべき信義則上の義務があり、特に長期間、多数回にわたって行われる貸金取引においては、過去の取引経過を明らかにすることが現在の債権債務関係を確定して適正な取引を行うために必要不可欠である。
貸金業法19条は、貸金業者に債務者ごとに契約年月日、貸付の金額、受領金額等の取引経過を記載した帳簿の記載及び保存を義務づけており、昭和58年9月30日蔵銀第2602号大蔵省銀行局長通達「貸金業者の業務運営に関する基本事項について」(以下「本件通達」という。)第二の四(1)ロ(ハ)は、貸金業者は「債務者、保証人その他の債務の弁済を行おうとする者から、帳簿の記載事項のうち、当該弁済に係る債務の内容について開示を求められたときは、協力しなければならない」としている。貸金業法19条が貸金業者に帳簿の記載、保存を義務づけた趣旨は、業務の適正化を図るとともに貸付に関して紛争が生じた場合の有力な証拠となるようにして、債務者等の利益を保護することにあり、同条及び本件通達の右規定により、貸金業者の取引経過開示義務が明確に定められている。そして、社会的実態としても、これに従った取り扱いが広く一般的に行われて慣習化し、取引経過開示義務は不法行為上の規範となっている。
(二) 被告は、原告の依頼を受けた西田弁護士が取引経過の開示を求めたにもかかわらず、開示を拒み、そのために原告は早期適正な債務の整理を行うことができず、多大の精神的苦痛を被った。また、被告が開示を拒んだため、原告は弁護士に委任して仮処分申立て及び訴えの提起の手続をとることを余儀なくされた。
よって、原告は、不法行為を原因として、慰謝料10万円及び弁護士費用1万円の支払を求める。
(被告の主張)
被告には、原告の主張するような取引経過開示義務はない。
貸金業法19条は、監督官庁による貸金業者に対する規制の一手段として、帳簿の記載、保存義務を課したにすぎず、同条により帳簿の保存が義務づけられているのは3年間分についてのみであり、債務者等には帳簿の開示請求権は認められていない。
本件通達は、行政上の指針を示したものにすぎず、私人間の権利義務関係を規律する法源となり得るものではない。
第三 争点に対する判断
一 不当利得返還請求(争点1)について
証拠(丁六五)によれば、被告が平成11年9月8日に不当利得返還債務31万2,760円を原告に弁済し、原告が不当利得返還債権に対する遅延損害金を請求しない旨の意思表示をしたことが認められ、右意思表示は、遅延損害金債務の免除の意思表示と解される。
二 損害賠償請求(争点2)について
原告の損害賠償請求は、貸金業者である被告に原告との全取引経過を開示すべき義務があることを前提とするものであるから、右開示義務の存否につき検討する。
1 原告は、取引の当事者は互いに適正な取引のために協力すべき信義則上の義務を負い、反復的な貸金取引においては、貸金業者は全取引経過の開示義務を負うと主張する。しかし、取引の当事者間に権利義務の存否や内容について争いのある場合、双方が互いに自己の主張を裏付ける資料を示すことは紛争の早期解決のために有益であるが、一方が相手方に対して手持ちの資料、情報の開示を請求する権利を有し、相手方が開示義務を負うと解すべき実定法上の根拠は見出し難く、一般的に右のような開示請求権、開示義務を認めることはできない。
2 貸金業法は、貸金業者に対し、貸付に係る契約を締結したときの書面の交付(17条)、弁済を受けたときの受取証書の交付(18条)を義務づけるとともに、その業務に関する帳簿を備え、債務者ごとに契約年月日、貸付けの金額、受取金額その他の事項を記載し、これを保存することを義務づけている(19条)。これらの規定は、取引の内容を書面にして債務者に交付し、また、帳簿に記載して保存することにより、取引の適正化を図るとともに、貸付けに関する紛争を防止することを目的とするものと解される。
原告は、右各規定、中でも19条を貸金業者の取引経過開示義務の根拠として主張する。しかし、同条は、貸金業者に対する規制の1つとして帳簿の記載及び保存を義務づけているにとどまり、帳簿の記載内容の債務者等に対する開示については何ら定めていない。また、帳簿の保存期間は、「貸付けの契約ごとに、当該契約に定められた最終の返済期日(当該契約に基づく債権が弁済その他の事由により消滅したときにあっては、当該債権の消滅した日)から少なくとも3年間」と規定されており(貸金業の規制等に関する法律施行規則17条1項)、過去の全取引経過についての帳簿の保存が義務づけられているわけではない。
したがって、貸金業法19条の規定から直ちに原告主張の取引経過開示義務を認めることはできない。
3 本件通達第二の四(1)ロ(ハ)は、貸金業法19条所定の帳簿の記載事項の開示につき、貸金業者は「債務者、保証人その他の債務の弁済を行おうとする者から、帳簿の記載事項のうち、当該弁済に係る債務の内容について開示を求められたときは、協力しなければならない」と定めている。右通達は、貸付けに関する紛争の防止という貸金業法19条の趣旨目的にかんがみ、債務の弁済を行おうとする者の求めがあったときは貸金業者が帳簿の記載内容の開示に協力すべきであるとの同条の運用に関する指針を示したものと解される。
原告は、右通達の規定をも貸金業者の取引経過開示義務の根拠として主張する。しかし、右通達は、貸金業法19条の運用に関する大蔵省の基本方針を定めたものであって、貸金業者と債務者等との間の法律関係を直接規律するものではない。また、右通達において開示に協力すべきであるとされているのは、債務の弁済を行おうとする者から当該弁済に係る債務の内容について開示を求められた場合に限定されており、弁済等により消滅したとされている取引等を含む全取引経過の開示を対象とするものではない。
したがって、右通達も原告主張の取引経過開示義務の根拠となり得るものではない。
4 原告は、貸金業者による全取引経過の開示が広く一般的に行われて慣習化していると主張するが、右事実を認めるに足りる証拠はない。
5 以上によれば、原告主張の取引経過開示義務を認めることはできないというべきである。
6 権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならず(民法1条)、貸金業者の権利の行使や義務の履行の方法、態様が社会的相当性を欠き、信義則に反すると評価され、これによって債務者の利益が侵害された場合には、貸金業者は債務者の被った損害を賠償する義務を負う。例えば、債務者から債務整理の委任を受けた弁護士が貸金業者に対して債務整理への協力を求め、債務の確定のために取引経過の開示を求めたにもかかわらず、貸金業者が債務者に対する残債権の内容やその根拠となる取引経過を明らかにすることなく一方的に貸金の返還を請求し、仮差押え等の法的手段を執ることは、社会的相当性を欠き、信義則に反する権利の行使に当たるというべきである。しかし、貸金業者が債務者等の求めに応じて全取引経過を開示すべき法的義務を負うとは認められないことは前示のとおりであり、したがって、全取引経過を開示しないことが直ちに信義則に反すると評価することはできない。前記事実経過によれば、被告は、本件訴訟の手続の中で当事者照会に対する回答という形で原告との全取引経過を明らかにし、原告に対する不当利得返還債務を認めて弁済しているのであり、右事実関係の下においては、被告が本件訴訟提起前に全取引経過の開示を求める原告の要求に応じなかったことは、信義則に反するとはいえない。
三 以上によれば、原告の請求はいずれも理由がない。よって、主文のとおり判決する。
(別紙)計算書<略>